現在の「十五番館」は、明治13年(1880年)頃に建設されました。 翌明治14年(1881年)から10年間はアメリカ領事館として使用され、その後いくつかの企業が入れ替わった後、昭和41年(1966年)より株式会社ノザワが所有し、本社事務所として使用してきた旧居留地に現存する唯一の商館です。
平成元年(1989年)に重要文化財の指定を受けたことを機に、翌平成2年(1990年)から保存修理工事を開始し、工事完了後は文化財の活用を目的にレストランとしてオープンしました。
平成7年(1995年)に発生した阪神・淡路大震災により全壊。しかし国・県・市からの補助を受け復旧工事を開始。倒壊前の部材70%を使用し、また文化財修理では今まで見られなかった免震工法を採用して平成10年(1998年)再び建設当初の姿に戻りました。
「十五番館」は街の近代化が進む中、旧居留地都市景観形成地域の重要な核としてこれから長い歴史を刻んで行くでしょう。十五番館の修復は、"先人の知恵を未来に活かし、真に心の通った都市景観づくりに貢献したい"という、私達建材メーカーとしてのささやかな企業姿勢の表現なのです。
建物の外観は、2階の南面にベランダをもつコロニアルスタイルで、柱頭飾りのある柱列が印象的です。
外壁は、柱の間に積まれる煉瓦下地にモルタルを塗って縦横に目地をつけ、石造風の意匠としています。
玄関ホールと階段室境には、イオニア式の柱列にアーチを架けたセルリアーナの仕切りがあります。 柱は木製でベースの上に立ち、胴膨らみと、18本のフルーディングがあります。 柱頭には漆喰で形作りされたヴォリュートと呼ばれる渦巻形があります。 また、両側の壁には、一部を凹ませたニッチと呼ぶ飾棚がついています。 これらの表現は、多分に古典的な意匠で、この建物の見所の一つです。
暖炉の枠金物は(W.JACKSON.&.SON NEW YORKの刻銘)炉前床タイルはイギリス製(MINTONS CHINA WORKS STOKE ON TRENTの刻銘)が用いられていました。 タイルは割損していたものを継ぎ合わせて意匠を複製・補足しました。
軸組図(震災後、煙突はコンクリート造としました)
・ 2階床梁(大根太)がスパンの長手に 架かっています
・小屋組の隅部で、配付トラス陸梁が 止長に架かっています
・2階床廻りの胴差が、すべて二丁継で 組んであります
・筋違柱があります
震災後の復旧工事は、文化財建造物の修理では今まで見られなかった種々の最新技術を導入しました。
以下が主な内容ですが、この結果建物の外観を変える事なく、軸組みの木材も7割が再利用できました。
地盤改良
地盤の液状化防止の為、深層混合処理工法を採用しました。これは、建物下の土中にコンクリートの壁を作り、地盤の動きを止めるものです。
鉄筋鉄骨コンクリートの煙突
2本の煙突は煉瓦積でしたが、鉄骨鉄筋コンクリート造に変更し、柱として機能させました。天井裏で、その柱と木造軸部とを鉄骨で結びました。
ゴムと鋼板を交互に積み重ね、加硫接着した積層ゴム体の中心に鉛プラグを埋め込み、一体化した免震装置です。
LRBは、オイレス工業(株)がニュージーランド化学技術局より特許専用実施権を得ています。
(PAT
NO.1352810)
天井裏の小屋材に書かれた文字
1.「卯十一月 廿六日作」
2.「千葉縣官下下サ国埴生郡成田□本□三丁目 風間儀佑寅年廿五才六月/棟梁源蔵」
卯年の明治12年には工事中で、千葉県成田市から来た大工風間儀佑と棟梁の源蔵らによって作られたことが判ります。
煉瓦の文字
「兵庫県下 播磨国明石郡 □幡前□吉□郎」
煉瓦は輸入されたものでなく、日本で焼かれました。
当時明石では瓦を焼く工場が多く、おそらく外国人技術者の指導の下に、瓦焼の窯で作られたのでしょう。
焼成温度が低く、非常に脆弱な煉瓦です。
写真(アメリカ合衆国 国立公文書館蔵)
建築史家である米国人ダラス・フィン氏により、古い写真が発見されました。
明治19年の撮影で、アメリカ領事館時代のものです。ベランダに写っている人は、領事館員達です。
震災後の復旧工事に際して、この写真によって木柵と門扉を復元しました。